結婚した理由はなんですか?独身の方が楽だと思い込んでいたら、二人の方が楽だからと友人に言われて衝撃を受けた話しです。
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友人たちとそれぞれの結婚観について語る機会があった。
古くから交友のある同級生でも、結婚する理由・結婚に対する想いは人それぞれだ。
結婚したばかりの友人、子育てに励む友人、夫婦二人で人生を歩む友人、離婚した友人、離婚して新たなパートナーと暮らす友人。そして結婚に興味のない友人。主婦、共働き、子供の人数まで別けるとさらにパターンは増える。
友人が語った「なぜ結婚したか」の理由を聞いた時、今までに感じたことの無い衝撃を受けました。
「二人でいる方が楽だから」
ん?何言ってんの?そんな訳ないよね。どこがどう楽なの?気付くと真剣に問いただしていました。
「二人の方が楽」そんなの絵に描いた餅ではないかと本気で思っていたのです。
友人曰く、例えばひとりなら100%の家事を自分でする。それよりも、疲れているときは相手がやってくれる(自分の納得いく完璧さではないとしても)のが助かる。という。
子育ても一通りのことは二人ともできる状態を目指していて、万が一、二人のどちらかに何か起きたときに備えているし、二人とも同じレベルで何でもできる事は、お互いの自由時間を確保するためにもなる。とのこと。
これまで積み重ねてきたキャリアを捨てずに働き続けることを選び、なおかつお互いの友人関係や個人的な時間を尊重し合っている。
分担するのではなく、基本すべてを二人ができる状態が前提で、体調や仕事の状況、得意不得意によって、協力し合う。このようにして共に暮ら事は、ひとりで生きる事よりも楽なのだそうだ。
そして、責任感から相方が自分を追い詰めてまで家族のために何かしようと必死になっているときは
「そこまでしなくていいんだよ。」と程よく止めるのだそうだ。
そんな相手だからこそ結婚を決めた。と語る友人。
絵にかいた理想の餅を、本物の餅にしたのだ。
仕事と育児に疲れ果て家庭の愚痴をこぼす様なこともなく「大変なこともあるよ」といいながら、さわやかに酒を啜る。
素直に「素敵だな。」と思った。
実際その夜も、相方さんが子どもの面倒を引き受けてくれなけば、友人同士でお酒を楽しむ事もできなかったのだから。これだけでも、十分すごいことなのだ。
子どもがいる友人と、独身の友人とでは、当然同じ時間帯に会う約束を作れない。
夜看ていてくれるお父さんがいても、なんだかんだ心配で早く帰らなきゃと落ち着かない。帰ったら家中が散乱して洗い物が山積みだったり、遅いと愚痴を言われたり、無言も怖い。
お互いの育児スキル、家事レベルが同じと分かっているから、安心して任せられる。
預けて来れない。でもどうしてもストレス発散したいから、子供を酒場に連れてくる。なんて事にもならない。
子どもや家事が煩わしい訳ではなく、一人の人間として自由になる時間、役割から解放され仕事を忘れる時間が欲しいと思うのは当たり前のことなのに、男性の育児参加やベビーシッターや家政婦が普及していない日本では、母親になるというのは当然の様に、義務であるかのように、自分の時間を諦める事とセットになる。
こんな事を言ったら「母親として無責任」「わがまま」「昔はそれが当たり前」くらい言われるのも覚悟の上だが、働きながら育児と家事をこなす決断をするとき、決して大げさな表現ではなくて本気で「自分の時間をどこまで諦められるか?」を突き付けられる瞬間なのだ。
女性もキャリアを積めるようになり、共働きが増えた現代、今まで通りの結婚像、家庭像だけでは対応しきれなくなってきている。似たような意見は、ネットやニュースで聞いたことがあるけれど、身近な友人の話を聞いてやっと実感が湧いてきました。
「幸せは二倍、苦労は二人で半分ずつ分けあう」といったどこかで聞き覚えのある言葉は、やっと本当の意味で「半分ずつ分け合う」時代がやってきたのではないだろうかと感じます。
当たり前が変わっていく実例を身近に感じて、新鮮さと衝撃で夜な夜な考え込んでしまいました。
自分も周りも昭和スタイルの家庭が多い環境で育ち、自然と自分が選ぶ相手も昭和スタイルだっただけなのかもしれない。
父親と母親という役割と仕事に分けた「半分ずつ」が当たり前だった。
その役割分担が成り立っていない家庭もあるし、一人で何役もこなさなければならない家庭もある。
外で仕事する夫、外でパートして家事して育児する妻。の様な家庭はまだたくさんある。
どのスタイルを選ぶかは人それぞれで、非難するつもりもないけれど、
「なんか、おかしくない?」と思う人が増え、合理的な分担とリスク回避を実践する人が増えた事がとても興味深く、面白いと思う。昔はどうであれ、今を生きる人の考えが変わることは誰にも止められない。
昔、お世話になったシングルマザーの上司がいつも言っていた言葉を思い出しました。
「女だって嫁が欲しい。旦那はいらないから家事をしてくれる嫁が欲しい」
令和の現代でも「昭和な家庭像を理想とする人」もいるし、二人が望んで、自分の実力を発揮できるのはこのスタイルだ!と考えたならそれでいいと思うのです。
料理や家事が苦手で、外で働いて収入得ることが得意なら、家事と子育てが得意な相手と共に暮らすことは最強のペアリング。自分の持ち場に集中して専念できるのだから。
ただ、そのスタイルが当たり前の時代は終わった。
お互いの希望がマッチするなら、主婦でも主夫でもいいし、どちらかに決めることなく生きることも自由だ。
二人とも働いて、二人とも家事と育児ができる。という家庭の在り方も現実身を帯びてきた。
「嫁を専業主婦にできないのは、夫に甲斐性がないからだ」とか平気で言う人も未だにいるのも現実で
「女だって嫁が欲しい。旦那はいらないから家事をしてくれる嫁が欲しい」と言ったシングルマザーの発想も、当時の世の中を物語っている言葉に感じます。
実際に共働きで子育てをしている友人たち(働き続けたいと願う友人たち)は、昭和スタイルの家庭を築いた同級生の男性に対して「時代遅れ」だと言い、苦労して就いた輝かしい職を辞めて結婚した奥さんを可哀そうだと言った。
同じ理想の家庭像を持っている二人がマッチングして成り立っているならば「可愛そうだなんて」まったくおせっかいな話しじゃないか?と言ったら、
この友人が按じていたのは、奥さんが他のスタイルの家庭像をもっていない事だった。
仕事を続けるという事は=仕事・家事・育児すべてやる
という究極の選択になっていしまう。「二択しかないのがおかしい!」と熱く語っていました。
なるほど。すべてを完璧にこなす事は難しい。そして、この二択しか選択肢が無いのは、家事と育児は自分がやらなければならないと思い込んでいるからだ。
昔シングルマザーの上司が言った「女だって嫁が欲しい。旦那はいらないから家事をしてくれる嫁が欲しい」はまさに、他のスタイルの家庭像をもっていないために至った結論だったのだと思う。
進化心理学的には、人が作り出してきたものや男女の違いは、すべてが生存し子孫を残すという目的のために進化してきた結果なのだそう。体の構造や性格、その特性が繁殖に有利だったという生きた証拠なのだ。
アラン・S・ミラーの「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」は、人間を動物全般として生物の一種として扱い、感情や善悪、ジェンダーの問題は一旦置いておいて、人の選択と思考は常に生物としての生存と繁殖のために進化してきたと捉えて読む。日常に当てはめると興味深くて面白い。
一万年という長い進化の歴史の中で、遺伝子レベルに刻まれた男女の固定観念は、近年の環境変化の速度について来れるのだろうか?
著書の中では、人間の行動は一万年前のままの価値観で、悲しいことに脳はほとんど進化していないのだそうだ。
1859年 世界中が新たな大陸を求めて海に出た時代、チャールズ・ダーウィンも海を渡り「種の起源」を世に出した。
最も強い者が生き残るのではない、最も賢い者が残るのでもない、唯一生き残るのは変化できる者である
とダーウィンが言ったのか言わなかったのかはさておき、強くなくても、賢くなくても、変化できなくても生き残るために”コミュニティ”というものを作って適応した人間は、一夫多妻や、一夫一妻、大家族や複合家族、核家族など、その時代や土地によってバリエーションをもっていたし、昭和スタイルや令和スタイルもその様なバリエーションの一つなのかもしれない。
しかし、いつの時代も不倫するし離婚もする。進化心理学的にはこれも、生存本能からの行動なのだ。
そう考えると、脳がほとんど進化していないのも納得がいく。
友人の結婚観から、想像が膨らんで最後に離婚の話とは、なんとも性格が悪そうな流れになってしまったが、
結婚にまったく興味のない自分にも、これから社会に出る若い世代にも「二人でいる方が楽」と感じる相手と出会うことが増える世の中になったら人の行動と価値観も変わるのかな。一万年の時を経てやっと人の進化が始まるのかなと想いを馳せる。